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小ネタ:鈴木周作抄訳『ペルリ提督 日本遠征記』テキストデータ化:6.1-2 使命はペルリ提督に下る

『ペルリ提督 日本遠征記』

この投稿は、明治末に出版された『ペルリ提督 日本遠征記』(鈴木周作抄訳)をテキストデータ化する作業の一部である。作業の概要については小ネタ:鈴木周作抄訳『ペルリ提督 日本遠征記』テキストデータ化:1.はじめにを参照のこと。

  • 入力が難しい、あるいは字形の無い箇所は、代字とともに■を置く
  • 「現代文訳」はかなり意訳している
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やっと第一編の二で、ここはなんと全体が一つの段落になっている。現在の人間が教わってきた文筆上の決まりだとか、そういうもののゆるさが強く見える。

現代文の方では適当に改段しよう。

原文

二 使命はペルリ提督に下る

當時墨西哥戦争で非常に名聲を揚げ、大いに人望を博したペルリ提督は、なか〱■の學者で、一般の人々と等しく、同僚などと共に右の問題に心を傾け、其の成功を疑はなかつたのである。ベルリ提督は、日本國民が自ら進んで國を鎖■して外國との交通を絶■つには、其處に何か深い理由があるに違ひない、夫には先づ第一に日本史を調べて見るに限ると考へ、日本に關した書物と云ふ書物は悉く渉獵した。其の結果、日本の鎖■国主義は決して日本人本来の希望ではなく、實は日本人の性格、氣質に全く反したものである事を發見した。同時に又提督は、歐州の諸國が此の鎖國の牆壁を打破しようと幾度か繰返した其の努力の跡を詳しく調べて、成程失敗するのも無理がないと思はるる原因を見出したのである。即ち各國民は我先に日本と交通の特権を得ようとて、相互に排陷したり、妨害したり、又使節の中には、自分の希望を無理無體にも通さうとて、勇悍なる日本人を威嚇するなど、随分剛慢不遜な振舞をなした者もあつた。甚しきに至っては、屈辱と名譽との何者なるかを善く知り、正義と親切との上に立って居る日本人の性格を見損のうて、其の面目を潰したり、或は不正の事すら敢へてした者がある。例へば葡萄牙は島原亂に賊徒に加勢し、英吉利の海軍士官は日本の海上で慮外な亂暴を働いた。又魯西亞は日本の領土たる北海の島嶼を占領し、盛に黒竜江口の防備を堅めて益々其の野心を疑はしめた許でなく、實際日本皇帝が云った通り、日本を窺って居た。這な■譯で、日本は益■々西洋諸國を蛇蝎の如く嫌忌するやうになり、獨り和蘭人のみには二百除年間通商を許したと謂ふものの、宛然囚人同様な取扱をして居たのである。所が亞米利加合衆國は以上の諸國とは其の趣きを異にし、未だ嘗て日本人に不快な聯想を惹起させるやうな交渉もなかった。唯一度修好の目的で、ビッドルと云ふ人を司令官として二隻の軍艦を派遣した事があるが、僅か十日内外日本に碇泊して居ただけで、日本人の希望通りに其の儘歸って了つた。其處でペルリ提督は、種々考察を廻した後、日本と商業上の關係を開くには、亞米利加は右に述べたやうな色々の事情■からして、非常に好都合であると信じた。而して提督は、此の問題が世間で囂しくなるて、遠征艦隊派遣の必要が唱道せらる餘程以前から、自分の所信を海軍の同僚や、政府の高官民間の有力家などに洩して居た。勿論提督と同意権の人は他にも居たし、又政府内部にもあつたので、政府は當時印度に駐在した米國艦隊■の司令官アウリックに命じて日本に赴かしめ、其の結果の報告をプレブル號のグライン艦長から徴してみると、艦長は日本と修好を開くの重要なる事を盛に說き立てた。斯うして日本遠征艦隊■の氣運は大に熟して来たが、斷然是が決行さるるに至つたのは、ペルリ提督の熱誠なる主張の結果で、提督はアウリックの召還せらるると共に、合衆國政府に向つて、日本遠征艦隊■派遣を正式に建議した。大統領ミラード・フェ■ルモアは提督が着實にして思慮に富む人物なるを知り、此の人を特命全権公使として日本に派遣したならば、必ず事を成就するであらうとの考を起■し、早速此の建議を容れて彼を特命全権公使に任じ、日本と和親通商を開く平和的使命を授け、一艦隊を率ゐて日本に赴かしむる事に決定したのである。

現代文

二 ペリー提督に使命が下る

ペリー提督は当時、メキシコ戦争で非常に名を上げ大いに人望を集めていた。彼はなかなかの学者であり、一般の人々と同じく日本との和親通商に関心を抱き、またその成功を疑っていなかった。そして日本の国民が自ら進んで鎖国し、外国との関係を絶ったのは、何か深い理由があるに違いないと考えた。彼はまず、日本の歴史を調べなければならないと考え、日本に関するあらゆる書物を探し求めた。その結果、鎖国主義は日本人が本来希望したのではなく、実は日本人の性格、気質に全く反したものであることを発見した。同時に、欧州諸国がこの鎖国の障壁を打破しようと繰り返した努力の跡を調べて、なるほど失敗するのも無理はないと思える原因を見出した。

すなわち欧州各国は、我先に日本との関係の特権を得ようと、互いに排除したり妨害したりした。また使節の中には、自分の希望を無理矢理通そうと、勇敢なる日本人を威嚇するなど、ずいぶん傲慢不遜な振る舞いをした者もいた。中でもひどい場合には、屈辱と名誉をよく知り、正義と親切の上に立っている日本人の性格を見損なって、その面目をつぶしたり、あるいは不正の類すらあえてした者すらいた。たとえばポルトガルは島原の乱において賊徒に加勢し、イギリスの海軍士官は日本の海上で無礼な乱暴をはたらいた。またロシアは日本の領土である北海の島々を占領し、黒竜江の河口の防備を固め、その野心を疑わせ。それだけでなく日本の皇帝が言った通り、実際に日本の様子を探っていた。こういった理由で、日本はますます西洋諸国を蛇蝎の如く忌み嫌うようになった。唯一オランダ人には二百余年通商を許したが、まるで囚人同様の扱いをしていたのである。

ところが、アメリカ合衆国はそのような諸国と違って、いまだかつて日本人に不快な連想を起こさせるような交渉もなかった。一度だけ修好を目的に、ビッドルという人を司令官に二隻の軍艦を派遣したことはある。しかしわずか十日程日本に停泊しただけで、日本人の希望通りそのまま帰ってしまった。そこでペリー提督はさまざまな考察を巡らせて、日本と商業上の関係を開く上で、アメリカはそういった事情から非常に好都合であると考えた。そして提督は、この問題が世間で騒がれるようになり遠征隊派遣の必要性が唱えられるかなり前から、海軍の同僚や政府の高官、民間の有力者などに、自分の所信を伝えてきた。もちろん提督と同じ意見の人は他にもいたし、また政府内部にもいたので、政府は当時、インドに駐在していたアメリカ艦隊の司令官アウリックを日本に派遣した。その結果をプレブル号のグライン艦長に確認すると、日本との修好の重要性を盛んに説いた。

こうして日本遠征艦隊の気運は大いに熟してきたが、これが決行されるに至ったのは、ペリー提督の熱誠なる主張の結果だった。提督はアウリックの召還と同時に、合衆国政府に向かって日本遠征艦隊派遣を正式に建議した。ミラード・フィルモア大統領は、提督が着実かつ思慮に富んだ人物と知り、彼を特命全権公使として派遣したなら、必ず事を成就するだろうと考えた。早速この建議を受け容れて彼を特命全権公使に任命し、日本との和親通商を開く平和的使命を授け、一艦隊を率いて日本に向かうことを決定したのである。

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