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小ネタ:鈴木周作抄訳『ペルリ提督 日本遠征記』テキストデータ化:7.1-3 遠征艦隊の編成

『ペルリ提督 日本遠征記』

この投稿は、明治末に出版された『ペルリ提督 日本遠征記』(鈴木周作抄訳)をテキストデータ化する作業の一部である。作業の概要については小ネタ:鈴木周作抄訳『ペルリ提督 日本遠征記』テキストデータ化:1.はじめにを参照のこと。

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第一編の三で、これまでより長め。

ペリー側の記録だとは言え、あまりに周囲の準備がグダグダ。強力な権限を与えられていながら、航海に参加する艦船の準備が進まない。トラブルにトラブルを繰返した末、最後には、旗艦のミシシッピー号だけで出発してしまう。当時のアメリカのこのグダグダには、どんな背景があるのだろうか。

遠征の準備の途中、ペリーがイギリスとアメリカの漁業権に関する紛争を解決した、というのも面白い。漁業権紛争といっても、海軍が出るほどなので、暴力沙汰があったのかも知れない。その紛争の解決にペリーが出ていき、権利の確定までしているあたり、当時の軍人像が見える。

原文

三 遠征艦隊■の編成

ペルリ提督はこの使命を受けるとと共に、早速艦隊■の編成に取掛つた。而して墨西哥戰爭中ペルリ提督の最愛の旗艦であつたミシシッピー號を筆頭とし、同じく蒸汽船のプリンストン號及びアレガニー號、夫にヴェルモント號、小軍艦のヴァンダリア號及びマセドニアン號も其の撰に當り、此の外、既に東印度に滞在中の蒸汽船サスクハナ號、小軍艦のサラトガ及びプリマスの二艦と武装運送■船サップライ號レキシングトン號、サウサンプトン號なども亦遠征艦隊■に加はる事に定まった。大統領フィルモアを初め、国務卿エベレット、海軍卿ケネディー以下、内閣の諸卿も此の計劃に對しては非常に賛同を表したので、艦隊■の準備は思う儘に整頓する事が出来、ペルリ提督は艦隊■の司令長官と同時に特命全権公使と云ふ、海軍並に外交に關して異常なる権力を委ねらるる事になった。提督が海軍省から受けた遠征の任務は、東印度支那海及び日本と云ふ廣大なる範圍に互る航海及び測量にあつたが、其の大目的は日本と和親を結び、太平■洋を航海する我が蒸汽船の爲に便宜なる地點に永久的の石炭貯臧所を設定するにあつたのである。

遠征艦隊は出来るだけ早く出發すべしとの命令であったが、各艦の準備に非常に手落ちがあった爲、延引に延引を重ね、其の爲世間からは件の計劃は中止になつたのではないかと想像された位で、プリンストン號の如きは、準備に取掛つてから悉皆完成したと云ふ報告のある迄に、九箇月も要つて居るのに、試運轉をして見ると、汽罐が不完全で全く訳に立たぬ事が判つた有様である。這■■事で、準備に一年餘を費し、プリンストン號の修繕を待つている間に、セントローレンス灣で英米兩國の漁業に關して紛擾が起り、俄に軍艦派遣の必要が生じたので、提督は政府の命に依つてミシシッピー號を率ゐて、其處に赴き、巧に紛擾を解決して兩國漁民の権利を確定し、満足に自分の任務を果した。而して紐育に歸る迄には、艦隊の準備が悉皆整つて居て、早速遣東の使命に出立つ事が出来るやうにと心に念じつつ紐育に歸つて来たのである。

合衆國が遠征艦隊■を日本へ派遣すると云ふ噂が世間に弘まると、軍艦の下廻にでも佳いから使つて呉れとて、履歴書を添へて申込む者が世界の各地方から引きも切らなかつた。又合衆國は云ふに及ばず、歐羅巴の文學者、科學者、旅行家なども切りに一行に加はらん事を求めて来たが、提督は斷然之を拒絶したのである。斯く提督が軍人以外の人を斷乎と謝絶した理由は種々あるが、兎に角、今回委任された任務は普通の場合とは異なり、大に愼重な、綿密な取扱を要するもので、之を巧に為遂■げるには、提督が始終■絶對的の権力を握って、厳格なる規律と訓練とを保つて行くが最も肝要である。所が軍人以外の人々に向かつては、窮屈な艦内にあつて嚴重な軍律に一々服従するを望む事が出来ない。此が其の理由の一つである。猶又、軍艦には夫々用務の將校や士卒が一杯乗込んで居るので、斯う云ふ學者達を容れる場所もない、夫によしや乗込んだにしても、偖て珍しい者があつて探検して見たいと思つた處で、自由勝手にならないので、非常に落膽するのは今から見透いて居るし、又彼等が上陸した場合に、萬一彼等の不注意や其の他の事から人民と衝突の起るやうな場合がありはせぬかと云ふ杞■憂も提督にはあつた。然し以上に擧げたよりも最も重大なる理由は、日本遠征の目的は學問情ではなくて、海軍並に外交情にあると云ふ事實に歸するのである。

又一方に於ては、提督は總て部下の者に、艦隊の行動、内部の動静等に關した事柄は一切新聞雑誌等の刊行物に通知するを厳禁し、故里、知人への通信も以上の記■事を避ける事を命じた。其の上遠征艦隊に加はつた人々の日記、記録類は海軍省から公にしても宜しいと云ふ許可のある迄は、政府の物として取扱はるる事となつた。つまり■■斯う云ふ厳重な取締をしたのは、我々の使命を中途で轉覆するやうな消■息が他國に洩るるのを防遏する爲で、現に魯西亜の如きは、合衆國が日本に艦隊■を派遣するのを探知するや否や、早速軍艦を日本に送■つたやうな有様である。所が學者を艦隊に乗込ませた場合に、知人や家族への通信を如何取締まつたら良からうか、艦員に對するやうに一々手紙に容喙する譯にもゆかないので、提督は初めからさう云ふ面倒の起るのを避けた次第で、夫に又部下の士官に科學的の觀察や、研究の趣味を起こさせるには實に好機■會で、縦ひ彼等には哲學的の十分な考察は出来ないにせよ、見聞の事實を有りの儘に記録するは雜作もない事であるから、夫だけでも彼等の學問の修業に成る譯である。のみならず我士官の間には學問にかけても評判の者が澤山あるし、現に陸軍の將校中には多くの學者が居る事であるから、海軍部内にもさう云ふ人の居ない筈はないと提督は考へた。以上のやうな種々の理由で、提督は學者の同行を謝絶したのであつた。

セント・ローレンス灣から歸つて見ると、まだ軍艦の準備は出来て居なかつたので、提督はミシシッピー號で紐育を立つてアナポリスに向つた。而して軍艦の準備が出来る迄待つて居た日には、此の上猶五六箇年も延ばさなければならぬから、提督は海軍省の許可を得、残した軍艦は出来るだけ早く準備を整へて後から来るやうにとの約束で、斷然ミシシッピー號で出發する事に決心した。

ミシシッピー號がアナポリシを解纜する時には、大統領、海軍卿其の他知名の紳士淑女が軍艦に訪ねて来て、提督並に部下に訣別の意を表した。やがてミシシッピー號はプリンストン號と相並んでチサピーク灣を下つて行つたが、其の時プリンストン號の航海に堪へぬ事が發見せられたので、ノルフォークの鎮守府に到着するや否や、丁度東印度から歸航したポーハタン號が直ぐ之に代る事になつた。代る事は代つたが、ポーハタン號は色々準備の必要もあつたので、直ぐ出帆する事は出来ないかつた。と言つて此の上日延べをするのは最早提督の堪ふる所でないし、夫に後から来さへすれば、別に同艦を待つて居る必要もなかつたので、石炭、糧食は、マデイラ、喜望峯新嘉堡等で、補供する計劃を以て、千八百五十二年の十一月二十四日、提督はミシシッピー號のみにてノルツォークの鎮守府を解纜して、日本を指して使命の途に上つたのである。

現代文

三 遠征艦隊の編成

ペリー提督は使命を受け、早速艦隊の編成に取り掛かった。そしてメキシコ戦争中、提督の最愛の旗艦だったミシシッピー号を筆頭とし、同じく蒸汽船のプリンストン号及びアレガニー号、それにヴェルモント号、小軍艦のヴァンダリア号及びマセドニアン号も選ばれた。この外、すでに東印度に滞在中の蒸汽船サスクハナ号、小軍艦のサラトガ及びプリマスの二艦と、武装運送船サップライ号、レキシングトン号、サウサンプトン号などもまた、遠征艦隊に加わる事に決まった。フィルモア大統領を初め、エベレット国務大臣、ケネディー海軍大臣以下、内閣の諸大臣もこの計画に対しては非常に賛同を表したので、艦隊の準備は思うがままに整える事ができ、ペリー提督は艦隊の司令長官と同時に特命全権公使という、海軍及び外交に関して非常に大きな権限を委ねられることとなった。提督が海軍省から受けた遠征の任務は、東インドシナ海及び日本という広大な範囲に渡る航海及び測量だった。しかしその大きな目的は、日本と和親を結び、太平洋を航海する我が国の蒸汽船に有利な地点に、永久的な石炭貯臧所を設けることにあったのである。

遠征艦隊はできるだけ早く出発すべしとの命令だったが、各艦の準備に非常に手落ちがあったため、延期に延期を重ねた。そのため世間からは、例の計画は中止になったのではないかと想像されたほどだった。プリンストン号に至っては、準備に取り掛ってから完成したという報告までに九ヶ月もかかったのに、試運転をしてみると、ボイラーが不完全で全く訳に立たないことが判明した有様である。こんな事で準備に一年余りを費し、プリンストン号の修理をを待っている間に、セントローレンス湾で英米両国の漁業に関する紛争が起きた。にわかに軍艦派遣の必要が生じたので、提督は政府の命によってミシシッピー号を率いて赴き、見事に紛争を解決し、両国漁民の権利を確定させ満足に自分の任務を果たした。そしてニューヨークに戻るまでには艦隊の準備がすべて整っていて、すぐに遣東の使命に出立できるように、と心に念じつつ帰ってきたのである。

アメリカが遠征艦隊を日本へ派遣するという噂が世間に広まると、軍艦の雑用でもいいから使ってくれと、履歴書を添えて申し込む者が世界各地から引きも切らなかった。またアメリカはもちろん、ヨーロッパの文学者、科学者、旅行家などもしきりに一行に加わろうと求めて来たが、提督は断然と拒絶したのである。提督が軍人以外を断固として謝絶した理由は色々あるが、とにかく今回の任務は普通の場合と異なり、非常に慎重な、綿密な取り扱いを要するもので、見事に成し遂げるには提督が常に絶対的な権力を握って、厳格な規律と訓練とを保つのが重要である。ところが軍人以外の人々に対しては、窮屈な艦内の厳重な軍規に一々服従することは望めない。これが謝絶した理由の一つである。また、軍艦には様々な将校や士卒が大勢乗り込んでいるので、そういった学者達を受け入れる場所もない。もし乗り込んだとしても、たとえば珍しいものあったから探検したいと思った所で自由勝手にならないので、非常に落胆するのは今から見え透いている。また彼らが上陸した場合に、万が一彼らの不注意やその他から、住民と衝突が起きるような事がないかという心配も提督にはあった。しかし、以上に挙げたものより最も重大な理由は、日本遠征の目的が学問ではなく、海軍及び外交にあるという事実に帰するのである。

また一方においては、提督は全ての部下に、艦隊の行動、内部の動静等に関した事柄を、新聞雑誌等の刊行物に通知することを一切厳禁し、故郷や知人への通信でもそのような内容を避けるよう命じた。その上、遠征艦隊に加わった人々の日記、記録類は海軍省から公にしても良いと許可が出るまでは、政府のものとして取り扱われる事になった。こういった厳重な取り締りをしたのは、我々の使命を途中で転覆するような情報が他国に漏洩するのを防ぐためだった。現にたとえばロシアは、日本への艦隊派遣を察知するや否や、早速軍艦を日本に送ったような有様である。ところが学者を艦隊に乗り込ませた場合、知人や家族への通信をどう取り締まったらよいか、艦員に対するように一々手紙に口出しするわけにもいかないので、提督は初めからそういう面倒の起こるのを避けた次第である。そしてまた部下の士官に、科学的な観察や研究の興味を持たせるには実に好機会でもあった。たとえば彼らには哲学的に十分な考察は出来ないにせよ、見聞した事実を有りのままに記録するのは容易い事であるから、それだけでも彼らの学問の修業に成るわけである。それだけでなく、我が士官には学問においても評判の者がたくさんおり、現に陸軍の将校の中には多くの学者がいるのだから、海軍部内にもそういう人がいない筈はない、と提督は考えた。以上のような様々な理由で、提督は学者の同行を謝絶したのだった。

セント・ローレンス湾から帰ってみると、まだ軍艦の準備は出来ていなかったので、提督はミシシッピー号でニューヨークを立ってアナポリスに向かった。しかし軍艦の準備が出来るまで待っていた日には、更に5~6ヶ月も出発を延ばさなければならない。そこで提督は海軍省の許可を得て、残した軍艦は出来るだけ早く準備を整えて後から来るようにとの約束で、ミシシッピー号で出発する事を決心した。

ミシシッピー号がアナポリスを船出する時には、大統領、海軍大臣その他有名な紳士淑女が軍艦に訪ねて来て、提督並びに部下に別れの意を表した。やがてミシシッピー号はプリンストン号と並んでチェサピーク湾を下って行ったが、その時プリンストン号に航海に耐えられない問題が見つかったため、ノーフォークの鎮守府に到着するや否や、ちょうど東インドから帰港したポーハタン号がすぐ代わる事になった。代わる事は代わったが、ポーハタン号は色々準備の必要もあったので、すぐ出帆する事は出来なかった。と言って、これ以上延期するのは最早提督は堪えられないし、それに後から来さえすれば、別に同艦を待っている必要もなかったので、石炭や糧食はマデイラ・喜望峯・シンガポール等で補供する計画を以て、1852年の11月24日、提督はミシシッピー号のみにてノーフォークの鎮守府を出帆し、日本を目指した使命の途についたのである。

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